没後30年の節目に寄せて

(2019年 没後30周年記念大会 寄稿文)

 

2019年は、群馬県が生んだ世界的ヒマラヤニスト、山田昇(享年39)三枝照雄(享年31) が、
1989年(平成元年)2月、厳冬期のマッキンリー山(現・デナリ山)で遭難してから30年という節目の年です。

 


 

群馬県山岳連盟はその死を悼み、両君の登山の業績を称え、夢を引き継ぎ、
後世までその名と人となりを伝えるため、1990年9月に第1回大会を開催しました。

 

大会は、両君が少年期に登ったゆかりの山である
上州武尊山 を舞台に、「山田昇記念杯登山競争大会」 として始まりました。

 

当時のコースは距離14.8km、累積標高差1,408mでした。

 


 

スポーツの基本は体力であり、自然の中で過ごす登山では、
荷物を背負って歩き、登らねばなりません。

 

何よりも、山田たちが続けてきた激しい登山を思うとき、
当時主流であった空身によるスピード競走ではなく、
あくまで「登山」の基本として負荷をかけて競う
「登山競争大会」 とすることが選ばれました。

 

そのため、
男子は 10kg以上、女子は 5kg以上 の負荷を背負って
スタートし、ゴールする形式としたのです。

 


 

「山田昇杯」 は成年男女を対象に、
登山の一層の発展を願って設けられました。

 

また、「三枝照雄賞」 は19歳未満の若い男女が
切磋琢磨し、競い合い、次代の登山界を背負う活躍の励みとなることを願って
設けられたものです。

 

この形で大会は 20回 続けられました。

 


 

その後、数回の距離や大会名の変更を経て、
「大会を利根沼田地区全体で支える」という趣旨のもと、
沼田市、昭和村も実行委員会に加わるなどの変遷を重ねてきました。

 

本年より140km超の「山田昇記念杯」となり、延べ 28回 の歴史を重ねる
伝統ある大会となっています。

 


 

山田昇の志が示したもの

 

2012年5月26日、
プロ登山家 竹内洋岳(たけうち・ひろたか)
ダウラギリⅠ峰(8,167m)に登頂し、
日本人として初めてヒマラヤの 8,000m峰14座全山登頂 に成功しました。

 

1995年、24歳でマカルー(8,463m)に登頂してから17年。
登頂できなかった時期を含めると、1991年のシシャパンマ(8,027m)から21年をかけての完登でした。

 


 

1989年2月、
山田昇が8000m峰14座登頂と冬季5大陸最高峰登頂を目指しながら、
9座12回の登頂を最後に、小松幸三、三枝照雄とともに冬のマッキンリーに逝ったとき、日本ヒマラヤ協会の山森欽一氏は、

 

「山田の遭難により、日本人で14座を完登する者は今後20年は出るまい」

 

と語りました。

 

その言葉どおり、竹内洋岳による偉業までは23年 の歳月を要しました。

 


 

竹内は公認完登者としては世界で 29人目 となりました。

 

なお、本人が14座完登を主張していても疑義のある登山家は、
2010年春にアンナプルナⅠ峰(8,091m)で達成したとされる
韓国のオ・ウンスン(女性)を含め、6名とされています。

 


 

平成31年2月 吉日

 

上州武尊山スカイビュートレイル実行委員会 副会長
八木原 圀明

 

(公益社団法人 日本山岳・スポーツクライミング協会 会長
山田昇ヒマラヤ資料館 館長
群馬県山岳連盟 会長)

 

※令和4年12月時点の役職です